カナダ物語 第五章 123ページから125ページまで

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Jan 21, 2014 09:49
1810年までに、ラギモディエー家はたくさんの子どもができ、レッド川に沿って住みつくようになりました。彼らは、その場所でフランス語をしゃべっていたメティ人と一緒に暮らしました。“メティ”はフランス語で“混ざった”という意味です。メティ人の祖先はヨーロッパ人と先住民からです。大五湖に沿うデトロイト市やスー・サイント・マリー町や、北の森のニッピゴン湖やハドソン湾に近くのチャ―チャル川に沿う場所など、すべての貿易所にメティ人の村がありました。フランス人やイギリス人の貿易交換者やボヤジュール[カヌーを使って森林で暮らすビーバーの毛皮を獲る人]は、先住民のクリー人やオジブウェー人と結婚しました。先住民と白人の混血となった子供と孫は、大きくなって要塞や貿易所で働きました。彼らは「真ん中の人々」と呼ばれるようになりました。先住民とヨーロッパ人の移民のことがよく分かる人でした。先住民とヨーロッパ人の両方と一緒に働くと、メティ人がいなければ毛皮貿易制度はできないようになってきました。最初は、たくさんの“真ん中の人々”はフランス人とオジブウェー人でした。その後、スコットランド人とクリー人になりました。祖先は様々でも、彼らは新しくてユニークな存在になりましたーーメティ人です。

メティ人は、毛皮貿易営業と一緒に西の方へ移りました。メティ人の家族からなる毛皮貿易会社の「ノ―ウェスタ社」と「ハドソン・ベー社」が競争し合いながら、彼らは大草原へ移動しました。馬に乗ったりアメリカンバイソン(バッファロー)を狩ったりすることを学び、草原先住民のように生産性が高くなってきました。バッファローの肉は、つぶって油とベリーと混ぜて皮の袋に詰めて「ぺミカン」という食べ物にされました。ぺミカンは小さくて軽いため、カヌーにたくさん収められました。それはボヤジュール達の主な食糧でした。ノ―ウェスタ社とベー社の毛皮交換戦争は続く時、両方がぺミカンを欲しがりました。ノ―ウェスタ社の人が特別に一番長い旅行をしました。

1800初年代まで、メティ人の国の中央は、ウィンニペッグ湖まで流れるレッド川とアシニボイン川の谷にありました。そして、1810年にレッド川に住みついたラギモデイエ―家は、将来をメティ人とつながりました。

それから、外国からレッド川で住みつける開拓者が着きました。風変わりな貴族のスコットランド人、セルカーク侯爵、スコットランド高地人から来た貧乏な移民のためにレッド川で植民地を造るつもりでした。お金もちなセルカーク侯爵はハドソン・ベー社を支配するための株を買い、会社から三十万平方メートルを譲り受けました。レッド川に沿いのアシニボイアという土地でした。セルカークはスコットランド高地にが穀物を栽培したり家畜を飼ったりしてもらいたかったのです。毛皮交換国の真ん中で英国植民地を造る予定でした。

絵の下
ゲリー要塞はレッド川とアシニボイン川の岐路で、レッド川のハドソン・ベー社の中枢でした。後、会社が三十キロ離れて下ゲリー要塞を建てました。現在、下ゲリー要塞が[博物館として]まだ残っています。しかし、川上の岐路の要塞がウィニペグ市になりました。

絵の上
この絵、「レッド川の開拓者の家と馬車」は1870年にウィリアム・ハインドによって描かれました。