魔都上海の過去・租界編

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Aug 31, 2015 18:24
1886年、意気揚々な22歳アメリカ青年卜舫濟(Francis Lister Hawks Pott)さんは、ユニオン神学校(Union Theological Seminary in the city of New York)の卒業証書を抱えて、渡洋して上海にあるセントジョン・カレッジ(saint John college)に来た。二年後、彼はセントジョン・カレッジの院長になった。1904年カレッジは大学に変更したとともに、彼は校長になった。それから35年間の間、彼の下でセントジョンは東洋と西洋を融合させた世の中に広く知られた最高学府になった。
当時日本同盟通信社上海支社社長、《上海時代》の作者松本重治さんは、“上海はアヘン窟、バー、カジノなど悪が満ちている場所だ。それに、バンド(The Bund,上海市中心部にある観光エリア)、南京路(上海で最大な繁華街)などに、外国のいろいろな特権を象徴する摩天楼がそびえている。”と述べた。上海は上海人の上海であり、外国人の上海でもある。
20世紀初の上海は、西洋人の目に“冒険家の楽園”のように映るものだった。それぞれの夢を抱えていた“冒険家”たちは、イギリス、アメリカやヨーロッパ諸国からやってきた。開港したとき、上海イギリス租界(1842年南京条約により開港した上海に設定された外国人居留地)に登記した外国人の数はわずか26人だったが、ほとんどはイギリス人だった。1855年、上海共同租界に登記した外国人の数は378人だった。わずか10年の間、その人数が十何倍も増えて、フランス租界は40何倍になった。卜舫濟という若いアメリカの教育家は、そういった数多くの冒険家の一員にすぎなかった。彼の下で、セントジョンは欧米大学制度を軸に、漢洋折衷を徹底した。
セントジョンは欧米大学制度を軸に、漢洋折衷を徹底した:卜舫濟さんは「孔子の生誕日」を設立し、“打倒孔家店(中国の封建論理の中核である孔子の教えを否定する運動)”を行う北京大学に分をわきまえた;一方で、彼は家で洋風ディナーを設けて、学生を招き、お茶を飲んだり会話をしたりした。
文豪林語堂さんは“私はヨーロッパ文明に対して得た考えは、本などからではなく、セントジョンの校長卜舫濟さんと他の優秀な教授によるものだった;彼らこそ本当の君子だ。”と思いを語らせた。上海は解放される前に、卜舫濟さんはアメリカへ帰国し、1947年病気でなくなった。5年後、セントジョンは閉鎖されたが、後世に中国の現代大学の見本として人々の記憶に残った。
上海市のイメージに影響を及ぼしたこの学府から、宋家の三兄弟、俞大維、栄毅仁、厳家淦などの高官名流子弟や各業界のリーダー、経済学者俞鸿钧、経叔平と学者李慎之、顧準,顧維钧、林語堂、張愛玲、貝聿銘など各業界の名家がたくさん出てきた。また、彼らに流暢な英語を身に着けさせた。当時の上海租界に、英語もラング付けされたものだった。が、“セントジョン式英語”だけは上流社会とインテリの間に認めた標準英語である。
そういった東洋と西洋を身に付けた“上海中流”たちの影響で、漢洋折衷は上海が最も特殊な“都市性格”と文化の種の一つになった。
1886年,踌躇满志的22岁美国青年卜舫济(Francis Lister Hawks Pott),揣着刚获得的纽约神学院学士学位,渡洋来到上海在圣约翰书院教书。两年后,他当上了书院院长,1904年书院改为大学,他也随之改任为校长,一当就是35个年头。在他的主持下,圣约翰成为了以中西合璧闻名中外的高等学府。
时任日本同盟通讯社上海分社社长、《上海时代》一书作者松本重治,曾将上海描述为“既充斥着鸦片烟馆、酒吧、赌场等充满罪恶的场所,同时,在外滩、南京路等处,象征着外国各种特权的摩天高楼耸立云天。”上海既是上海人的上海,也是外国人的上海。
20世纪初的上海,已是洋人眼中的“冒险家乐园”。怀里揣着各自理想的“冒险者”们,从英国、美国和欧洲其他国家越洋而来。开埠之时,在上海英租界登记的外国人仅26人,大部分是英国人。1855年,在上海公共租界登记的外国人数是378人,短短十年间,这个数字增长了十几倍,法租界更是增长了40多倍。卜舫济这位年轻的美国教育家,也不过是这些冒险家中的一员。在他主持之下,圣约翰立足西方大学制度,却始终坚持中西融合。
圣约翰虽立足于西方大学制度,却始终坚持中西融合的办校理念:卜舫济设立“孔诞日”,让“打倒孔家店”的北大为之汗颜;每逢周末,他又在家里举行西式晚宴,邀学生去喝茶聊天。
国学大师林语堂曾回忆说,“我这对于西方文明之基本态度不是由书籍所教的,却是由圣约翰的校长卜舫济博士和其他几个较优的教授而得;他们都是真君子。”上海解放之前,卜舫济就回到美国,1947年因病去世。5年后,圣约翰被关,但却作为日后中国现代大学的样本被人们铭记。
从这所影响了整个上海气质的学府里,既走出了宋子文三兄弟、俞大维、荣毅仁、严家淦等达官贵显子弟和各界领袖,也走出了经济专家俞鸿钧、经叔平和学者李慎之、顾准,还让顾维钧、林语堂、张爱玲、贝聿铭等后来各领域的名家,练就了一口流利的英语。当时的上海租界,英语也分“三六九等”,但只有“圣约翰英语”成为上流社会与知识分子公认的标准英语。
正是这批学贯中西的“上海中产”,将中西融合变成了上海最特殊的“城市性格”和文化因子之一。