誘惑

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Jul 9, 2012 17:30
 深い呼吸で上下する背中に置いた手からは、薄手のブラウス越しに肌の温もりが伝わってくる。肋骨が浮き出ているのも、ブラジャーが少し食い込んでいるのも、わかる。足元にはモツらしきものが混ざったゲロの湖が広がっていく。それと女が履いているウェッジソールサンダルの可愛さとのギャップを不思議に思いつつも、小刻みに震える背を不器用に撫ぜる僕。

「どう?少しは楽になりました?」

 彼女は無言で頷く。すると半開きの口から一筋のよだれが糸を引きながら地面へと垂れ落ちていき、彼女はそれを何気なく舌で切る。どことなく親しみを感じさせる仕草。それは彼女ようなおしゃれで可愛い子が普段見せない人間臭さにあるだろう。

「タクシーを呼んであげましょうか?」

 彼女は下を向いたまま首を横に振り、駐輪場の方を指さす。シフォンの袖から透けて見える腕は華奢で細く、自分で動かしているというより、まるで夜風になびいているように見える。

「あの、もしかして、乗って帰るつもり?」

 図星なのか、彼女の身体がこわばるのを感じる。

「よかったら家まで送りましょうか?」

 そこで初めて、彼女は顔を上げる。探るような目で僕を見る。その心配そうな視線をまともに受けて、僕は言う。

「まあ、送ると言っても歩いてですし、それが嫌なら、せめて元気が出るまで見守らしてください。あ、ところで、炭酸水飲みます?」

 ハイボールにしようと買ったレモン味の炭酸水。買い物袋から取り出していると、彼女が中身を覗き込もうとしているのに気がつく。僕はプシュっと缶を開けて、彼女に渡す。

「後はお豆腐と長ネギですね。これらを買いに行った帰りに、あなたが座り込んでいるのを見かけました。最近冷奴に目覚めちゃってね。安いし、簡単に作れるし、ダイエットにもいいらしい。ちょっとメタボなんでね、僕」

 僕もその気にさえなれば、人に親しみを抱かせることができる。見た目の怖さを和らげるためでもある。そのおかげか、彼女は僕の手に自分の手を重ねて、小声で「よろしく」と言った。

 彼女のカバンと長ネギがはみ出ているエコバッグを斜め掛けにして、カゴのない自転車を押しながら、ほとんど行かない駅の南側を歩く。僕の肩にもたれて歩く彼女に何回か道を尋ねる。時には歩道の縁石に座って休憩をとる。時には高級マンションの生け垣に吐く彼女の髪を持ってあげる。

「あの、あそこのラーメン屋さん、どう?何系ですか?」

 彼女が何も言わないので、僕は目を凝らして店内のメニューを見つめながら、ゆっくりと通り過ぎる。そして、彼女の部屋に着くまで、帰りに何ラーメンにしようか嬉しく悩む。どれにしろ、全部乗せにするのは確実。

 玄関に上がった彼女が脱いだサンダルを揃えていると、彼女の視線を感じる。見上げると、かぼちゃパンツから片方だけ出ているブラウスに一瞬見とれてしまう。玄関の明かりで改めて見ると、かなり透けている。ウエストのくびれやブラジャーの模様がわかるくらい。それに、彼女はただ突っ立って、乱れた前髪越しに僕を見ているだけ。さっきとは違う、探るような目で。

 正直言って、誘惑に負けそうな瞬間はあった。しっかりしていたいという自分の意思とは裏腹に、心はなだめるような声で呟いていた。

 今日だけは我慢しなくていいから。

 もう二度とここに来ることはないし、せっかくだから。

 困っていた女性を助けた自分へのご褒美だと思えばいいんじゃない?

 でも、僕は我慢した。エコバッグの中身を見て我に返り、ラーメン屋の引き戸から手を離した。そして、なめらかな冷奴を必死にイメージしながら家路に急いだ。