カナダ物語88部

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Feb 22, 2011 11:08
カナダ物語88部
第七課
カナダ連邦の日々
162ページから165ページ

1860年代の英国北アメリカでは、興奮させて賑やかな場所でした。英国と英植民地を治めるビクトリア女王は、1837年で王位についた時で18歳だけでした。しかし、1860年代までに、女王も帝国のように永久みたいでした。1861年、愛された夫アルバート王子*は他界すると、40年間ずっと黒い喪服を着ましたし、ウィンザー城で、すべての召使いも黒い腕章を着ることにしました。しかし、“ウィンザーの未亡人”の帝国は、よけいに広くて豊富でした。英国北アメリカの人々は、その帝国の部分だから誇りました。

*アルバート王子は、女王の夫なのに、国王ではありません。現在のイギリス女王エリザベス二世とフィリップ王子の夫婦と同じです。

英国北アメリカの新聞では300通が発行されて、普通の町はたくさんの新聞社がありました。ハリファクス市(大西洋のノバスコシアの首都)は、ほとんど12社がありました。人は、1か2ペンスに快適な居間でくつろぎながらニューズを読むことができました。普通のニューズの中で、酷い犯罪や死刑の記事がありました。なぜなら、記者も読者もそのようの残虐のニューズが好きそうでした。

毎日で新聞の中で鉄道の記事もがありました。1836年、モントリオールの近くに、最初の汽車は、ボロボロな木材線の上で走ってから、ずっと“レールウェー・マニア”は、英国北アメリカで流行っていました。1860年代までに、鉄線はすべての植民地をつなげました。黒い煙と火種を出したりする汽車が、夜中走って遠い町々と植民地をお互いに接近しました。新鉄道、新鉄橋、ニューズでいっぱい電新信機について、新聞の記事が多かったのです。

1860年、普通の人々は農民でした。他の人は、採鉱のようなとっても危ない仕事をしていました。賃金は少なくてあまり生活できませんでした。やせこけた子どもも毎日12時間でたいへん働いて、権利保障の法律はありませんでした。仕事の終わると、男の人も女の人も子どもも、強い酒を飲んだり乱暴なゲームをやったりすると苦しい生活を忘れようとしました。

しかし、英国北アメリカで、他の人々は、違った生活を送っていました。快適な家に住んだり、高い塔を持っていた綺麗な石材でできた教会で祈ったり、コンサート・ホールでイギリス小説家チャールズ・ディケンズの朗読や“スウェーデン・ナイチンゲール”ジェニ・リンドの歌を聞いたりしました。その貴族者にとって、英国北アメリカは、宗教や自制や行儀がよいところと思われていました。

新聞の中でいつも政治のニューズがありました。イギリス政府は、まだ植民地を治めるが、地元の事について植民地の当選された会議員は、取り扱いました。すべての植民地で、一番投票を貰った党のリーダーは首相になりました。だから、さまざまの党が投票のために激しく戦い合いました。多くの植民地で有権者は、公に立ってどちらの党を応援すると発表しなければなりませんでした。他の党の応援する人は、よく叫んだり、脅かしたり、当選を止めるためにいじめたりしようとしました。ただ男の人は投票権しかありませんでした。多くの男の人は、女の人の父や夫が女の代表だから、女の人は投票権は必要はないと主張しました。実は、普通の男の人も投票権ありませんでした。ただ十分の土地を持っている男の人が資格でした。

多くの新聞編集者と新聞所有者は、政治家でした。ジョージ・ブラウン――背が高くて赤毛でうるさいスコットランドで生れたトロントに住んでいた編集者政治家の一人でした。彼は、英国北アメリカはの一番人気の新聞“ザ・グローブ”(地球)の発行者でした。それに、カナダ・ウェスト(現在オンタリオ州)のリフォーム党のリーダーでした。彼は、情熱的で率直な人で、彼のために1864年の夏の日に、プリンス・エドワード島でカナダの政治家が集まりました。

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1867年7月1日、ドミニオン・ディ(現在カナダ・デイ)のたいまつの光パレードがあります。オンタリオ州のベーリン市(現在キチェナー市)のキング・ストリートとクウィーン・ストリートの交差点です。新消防車を見せているボランティア消防士を見ているニュー・ハンバーグ市民軍中尉は、その日の朝で軍隊パレードで、もう行進しました。

(失礼します。インタネットでその絵を探そうとしたが、見つけませんでした。)
絵の下
1860年、ウェールズ皇太子は、オタワを訪問した時、彼のために楽しいことの一つは
“木材滑り台”が建つことにされました。
写真:
〝木材滑り台”