カナダ物語67部

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Sep 14, 2010 23:02
カナダ物語67部
129ページから132ページまで
「さまよう人と芸術家」

モントリオール市の北西会社の終結で、あまり毛皮が東へ運送されませんでしたが、カナダの植民者は北西を忘れませんでした。西の方へ行ってきた旅行者と冒険者は、帰ると“広々な台地”の話をしました。

画家ポール・ケーンは、1845年にトロント市から出発しました。西の台地と人々を描写するつもりでした。彼のやる気は、ジョージ・シンプソン[ハッドソン・ベイ社長]に感心しました。ベイ社員と一緒に大五湖の上で旅行することを許しました。ケーンはレッド川を訪れるとバッファローの狩人と一緒に馬に乗りました。それからロッキー山脈を越えると太平洋へ着きました。どこにでも絵を描きました。家に帰ると画家を展示すると、大成功しました。東の人々はそんなイメージを見たことはないものです。

他の冒険者や芸実家や作家などは、北西へ行きたかったのです。ジョン・パリセルは、元気で若いアイアランド人でした。狩りは大好きでした。大陸中バッファローやクマや山羊を追いかけるやる気は強かったのです。しかし、イギリス政府は大草原の仕事を提案しました。1818年、イギリスとアメリカ合衆国は、[大五湖]からロッキー山脈までずっと北緯49°は境になると同意しましたが、北緯49°の北の台地は、毛皮交換やブッファロー狩人のための土地しかないでしょうか?毛皮交換者は、他の人を締め出すために、北西の台地はツンドラみたいと言いました。アメリカ人は、カナダの北の境までずっと暑い砂漠だと言いました。イギリス政府は、いい土があるかどうか知りたかったのです。ジョン・パリセルは、遠征隊を作って出発すると命令されました。

1857年、パリセルの遠征隊は、レッド川から出発しました。三年間、遠征隊の科学者は土を勉強しました。パリセルは、食糧のためにバッファローを撃って殺しました。しかし、外交官にならなければなりませんでした。北西の土地は、まだまだ先住民のクリー人とブラックフット人の縄張りでした。時に、パリセルの人々は草原で先住民の馬に乗る戦士団に会いました。

パリセルは、農業のために乾燥すぎ、開拓者のために湿気のない広い台地があると知らせました。今、南サスカチュワン州とアルバータ州の中に「パリセルの三角」と呼ばれるようになった三角の台地があります。その三角の中で農業に適当な土はありません。しかし、パリセルによると、遠く北の方で“肥沃な四角”があるそうです。ここはツンドラじゃなくて、いい農業ためな土がありそうでした。

北西の興味は、強くなってきました。イギリスだけじゃなくて、西カナダ[今オンタリオ州」では、農業土地は、少なくなってきました。土地をどこに見つけるでしょうか?と考えている農民の子どもは、西の方へ向かいました。トロント市の記者ジョージ・ブラゥンは、「グローブ」という新聞にカナダは北西で植民地を造らなければなりませんと主張していました。あるカナダ人の話によると、まるで西の大草原は、空っぽの台地が、植民者の農民を待っていたみたいのです。

絵の上
若いアイランド人ジョン・パリセルは、狩りや釣りやマスケットを大好きで、カナダの草原に冒険が欲しかったのです。しかし、1856年、イギリス政府は偉い仕事をさせました。遠い草原は、農業と植民地のために大丈夫かなかわかりたかったのです。三年後、パリセルは「はい」と言いました。
しかし、「パリセルの三角」という乾燥な地域はだめでした。

絵の左
ウィリアム・ハインドによる「鉱山キャンプの居酒屋」という絵です。ウィリアム・ハインドは、[遠征隊の]“オバーランダー”と一緒にブリティッシュ=コロンビアのカリブー金鉱地を見つけようと出発しました。大変激しい道だから、絵の男の人のようにオバーランダーはよく疲れたちがいないでしょうか。

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ガチョウの群れは北の方へ飛びながら、エドモントン要塞の建てる人は新しい「ヨーク・ボート」を完了します。監督する棟梁ジョン・ロワンドは、背が高くて元気な毛皮交換者でした。30年間、エドモントン要塞を経営しました。
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