カナダ物語63部

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Sep 10, 2010 09:23
カナダ物語63部
123ページから125ページまで
「真ん中の人々」

1810年までに、ラギモディエー家はたくさんの子どもがいるし、レッド川に沿って住みつけるようになりました。その場所でフランス語をしゃべっていたメティ人と一緒に暮らしました。“メティ”はフランス語で“混ざった”という意味です。その人の祖先はヨーロッパ人と先住民からです。大五湖に沿うデトロイト市やスー・サインと・マリー町で、北の森のニッピゴン湖やハドソン湾に近くのチャ―チャル川に沿う場所で、すべての貿易所でメティ人の村がありました。フランス人やイギリス人の貿易者やボヤジュール[カヌーで森林中の毛皮交換貿易者]は、先住民のクリー人やオジブウェー人と結婚しました。先住民と白人で混ざった子どもと孫は、大きくなって要塞や貿易所で働きました。その人々は「真ん中の人々」と呼ばれるようになりました。先住民とヨーロッパ人の移民のことをよく分かる人でした。両方と一緒に働くと、間もなくその人々がいなければ交換制度はできないようになってきました。最初に、たくさんの“真ん中の人々”はフランス人とオジブウェー人でした。後、スコットランド人とクリー人になりました。さまざまな祖先でも、新しくてユニックな人々になりました。メティ人です。

メティ人は、毛皮貿易営業と一緒に西の方へ移りました。メティ人の家族は毛皮貿易会社の「ノ―ウェスタ社」と「ハドソン・ベー社」が競争し合いながら大草原へ動きました。馬に乗ったりアメリカンバイソン(バッファロー)を狩りしたりすることを習って草原先住民ほど能率が高くなってきました。バッファロー肉は、つぶって油とベリーと混ぜて皮の袋に詰めて「ぺミカン」という食べ物をつくりました。ぺミカンは小さくて軽くてカヌーでよく納められました。それはボヤジュール達の主な食糧でした。ノ―ウェスタ社とベー社の毛皮交換戦争は続く時、両方がぺミカン欲しかったのです。特別にノ―ウェスタ社の人がそれを取るために一番長い旅行しました。

1800初年代まで、メティ人の国の中央は、ウィンニペッグ湖まで流れるレッド川とアシニボイン川の谷にありました。そして、1810年にレッド川に住みつけたラギモデイエ―家は、将来をメティ人とつながりました。

それから、外国からレッド川で住みつける開拓者が着きました。風変わりな貴族のスコットランド人、セルカーク侯爵、スコットランド高地人から来た貧乏な移民のためにレッド川で植民地を造るつもりでした。お金もちなセルカーク侯爵はハドソン・ベー社を支配するための株を買ったから、会社に三十万平方メートルを譲られました。レッド川に沿うアシニボイアという土地でした。セルカークはスコットランド高地人が穀物を栽培したり家畜を飼ったりしてもらいたかったのです。毛皮交換国の真ん中で英国植民地を造る予定でした。

絵の下
ゲリー要塞はレッド川とアシニボイン川の岐路で、レッド川のハドソン・ベー社の中枢でした。後、会社が三十キロ離れて下ゲリー要塞を建てました。現在、下ゲリー要塞が[博物館として]まだ残ります。しかし、川上の岐路の要塞がウィンニペッグ市になりました。

絵の上
この絵、「レッド川の開拓者の家と馬車」は1870年にウィリアム・ハインドによって描かれました。

写真
1885年のゲリー要塞。ウィリアム・ハインドの絵。現在のウィにペッグ市と“ザ・フォクス”(水岐路)です。