カナダ物語 第四章 91から96までのページ

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Aug 18, 2013 08:22
グロ―ス・イルは、セント・ローレンス川が流れる美しい島です。しかし、1800年代、数万人の移民にとって、怖いカナダの入り口だったそうです。

1815年、ナポレオン率いるフランスと戦いが終わると、イギリスの島々から出発する数千人の人々は、新しい人生を求めるために英領北アメリカに来たのです。 1820年代、30代に、大西洋を渡るのは, まだまだ危険な旅でした。旅行は、一か月から四ヵ月かかるので難破する可能性が高かったのです。移民の家族と荷物は、船旅のために暗くて臭い船倉に詰められました。船長にとってその人々は荷物のような物でした。イギリスへ戻る時は、その船倉に木材を載せて帰ってきたようです。

何よりも恐れていたのはコレラでした。1830年代、その感染病はヨーロッパと北アメリカで流行していました。感染者は、突然な苦しみだし、けいれんや嘔吐や下痢といった症状が出ます。感染者は、数時間で病気を発症し、死んでしまいますが、中には感染しても病症しない人もいました。そういう人が気付かないまま、他の人に感染させてしますのでコレラは爆発的に広がりました。

植民地政府は、必死ににコレラを締め出そうとしました。川下カナダは、セント・ローレンス川に経由の移民の船のために、グロス・イルに検疫所を設けました。ノバスコシアもニューブランズイックも自分達の検疫所を設けていました。移民は、新しい人生への夢を抱いてカナダへ来たのであって、不愉快で臭い船からは早く出たかったのですが、具合が悪そうな人は、皆、グロス・イルの検疫所の納屋へ向かわなければならなかったのです。その場所で、治るまでに残ったの、それとも亡くなったのです。両親と一緒に、海をわたった勇敢な子供の大半は、恐ろしい検疫所で両親と引き離され孤児になってしまったのです。グロス・イルでは、5000人のかわいそうな移民が、病人の世話していた勇敢なカナダ人の医者と看護士とともに共同墓地に埋められたということです。

それだけ危険であったのに、波が押し寄せるようにたくさんの移民が英領北カナダに入りました。一週間で一万人の人が上陸したとの記録があります。移民した人々は、森の木を切ったり農地を開拓して、町と都作るために、惜しみない労力を注いだのです。「ナビー」という若い男の集団が、激しい川と滝のまわりに運河を切り作りました。それは、その人が森林から木材も持ってきったり、ニューフォンドランドで、鱈に塩をかけたり、太平洋カナダの造船所で帆船を出発したりしていた仕事をしました。

移民の多くは、イギリス人でした。スコットランドのハイランド人は、羊を飼育を目論む酷い家主によって、土地から追い出されたのです。彼らは、ケープ・ブレトン島や川上カナダのグレンガリー地区まで来て、伝統的な民族音楽を歌っていました。ある家族は、人口が増えすぎたアイルランド、または、窮屈なイングランドの都市から来たのです。その人たちは、英領北アメリカにわたって住み着いたのです。ある人が、ニューファウンドランドの港で鱈の漁師になり、またある人はニューブランズイックの激しいレスチグシ川の近くで木こりになり、またある人は川上カナダの町で農業を営み、川上の森林に行ったりしたのです。または、セント・ジョン市かモントリオール市のような賑やかな港で商人になったのです。

これらの移民は、英領北アメリカを「貧しい男性にとっていい国だ」と呼んでいました。意味は、真面目に働けば成功の可能性があるということです。一人の若い男の人は、家族のための手紙の中で「イングランドは、人が多すぎるが、ここでは人が足りない」と書いていたのです。貧しい女性にとっても住みやすい国であったとおもわれます。その時代、女性は父かご主人によって養われるのが普通でしたが、独身の女性も植民地に来て、教師や織り手や召使として働き始めました。

しかし、全ての新来者が貧しかったというわけではないのです。退役将校といった野心的な“紳士”は、英領北アメリカの住民を治めながら、悠々自適な生活をする夢を見たのです。しかし、落胆した人は多かったようです。スザンナ・ムーディは、優雅で上品な家族と一緒に、川上カナダのピタボロー町に近くの所で開拓生活を送ったのですが、その生活は決して楽なものではありませんでした。彼女は、自著である「森林の開拓」という本の中で「カナダの森林で成功したイギリス紳士を私に知らない」と書いていたのです。ムーディ夫人も、賛成せずにはいられなかったのです。オンタリオ湖に沿いのベルビール町に引っ越して嬉しかったようです。

移民は海を渡ると、カナダに移り住み、英領植民地で子孫繁栄しました。。英仏戦争が終わった1760年代に、全植民地の人口は、10万人ほどでしたが、1850年代までに、2百万人に達しました。