カナダ物語 第五章 129ページから132ページ

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Jan 25, 2014 20:20
「さまよう人と芸術家」

モントリオールの北西会社の終結で、あまり毛皮が東へ運送されませんでしたが、カナダの植民人は北西を忘れませんでした。西の方へ行ってきた旅する者と冒険者は、帰ると“広大な大地”の話をしました。

画家ポール・ケーンは、1845年にトロント市から出発しました。西の大地と人々を描写するつもりでした。彼の意気込は、ジョージ・シンプソン[ハッドソン・ベイ社長]の心を動かし、ベイの社員と一緒に五大湖で旅行することが許されました。ケーンはレッド川を訪れ、バッファローの狩人と一緒に馬に乗ったりした後、ロッキー山脈を越え、太平洋へたどり着きました。どこに行っても絵を描き、家に帰ってから画を展示すると、大成功しました。東の人々はそんなイメージを見たことはないものです。

他の冒険者や芸術家や作家などは、北西へ行きたかったのです。ジョン・パリセルは、元気で若いアイアランド人でした。狩りは大好きでした。大陸中のバッファローやクマや山羊を追いかけるやる気にあふれていました。しかし、イギリス政府は大草原の仕事を提案しました。1818年、イギリスとアメリカ合衆国は、[五大湖]からロッキー山脈までずっと北緯49°を国境にすると同意しましたが、北緯49°の北の大地は、毛皮交換やバッファローの狩人のための土地しかなかったのでしょうか?毛皮交換者は、他の人を締め出すために、北西の台地はツンドラみたいと言いました。アメリカ人は、カナダの北の境までずっと暑い砂漠だと言いました。イギリス政府は、豊富の土があるかどうか知りたかったのです。ジョン・パリセルは、遠征隊を作って出発せよと命令されました。

1857年、パリセルの遠征隊は、レッド川から出発しました。三年間、遠征隊の科学者は土を調査しました。パリセルは、食糧のためにバッファローを撃って殺しました。しかし、外交官にならなければなりませんでした。北西の土地は、まだまだ先住民のクリー人とブラックフット人の縄張りでした。時に、パリセルの人々は草原で先住民の馬に乗る戦士団に会いました。

パリセルは、農業のために乾燥すぎ、開拓者のために湿気のない広い大地があると知らせました。今、南サスカチュワン州とアルバータ州の中に「パリセルの三角」と呼ばれるようになった三角の大地があります。その三角の中で農業に適当な土はありません。しかし、パリセルによると、遠く北の方で“肥沃な四角”があるそうです。ここはツンドラではなくて、いい農業に向いた土がありそうでした。

北西への興味は、強くなってきました。イギリスだけではなく、西カナダ[現在オンタリオ州」では、農地は、少なくなってきました。土地をどこに見つけるでしょうか?と考えている農民の子どもは、西の方へ向かいました。トロント市の記者ジョージ・ブラゥンは、「グローブ」という新聞にカナダは北西で植民地を造らなければなりませんと主張していました。あるカナダ人の話によると、まるで西の大草原は、空っぽの大地が、植民者の農民を待っていたみたいだというのです。

絵の上
若いアイランド人ジョン・パリセルは、狩りや釣りやマスケットが大好きで、カナダの草原で冒険がしたかったのです。しかし、1856年、イギリス政府は偉い仕事をさせました。遠い草原が、農業と植民地に向いているのか知りたかったのです。三年後、パリセルは「はい」と言いました。しかし、「パリセルの三角」という乾燥した地域はだめでした。

絵の左
ウィリアム・ハインドによる「鉱山キャンプの居酒屋」という絵です。ウィリアム・ハインドは、[遠征隊の]“オバーランダー”と一緒にブリティッシュ=コロンビアのカリブー金鉱地を見つけようと出発しました。大変激しい道ですから、絵の男の人のようにオバーランダーはよく疲れたにちがいありません。

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ガチョウの群れは北の方へ飛びながら、エドモントン要塞の建てる人は新しい「ヨーク・ボート」を完成させます。監督する棟梁ジョン・ロワンドは、背が高くて元気な毛皮交換者でした。30年間、エドモントン要塞を経営しました。