カナダ物語149部

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Oct 13, 2011 18:23
カナダ物語149部
268ページから269ページまで
戦後カナダ


トロントからアメリカ国境に、最初の高速道路“エリザベス女王の道路”は、戦前に開通しました。50年代と60年代、出口ランプ、インターチェンジ、高架橋は、全ての町の周りに現れました。国政府と州政府は、ニューファウンドラン州からブリティッシュ・コロンビア州までのカナダ中道路=トランズ・カナダ・ハイウェーを作るために協力しました。汽車は、まだ貨物と穀物を運搬したが、鉄道時代は、もう終わりそうでした。すぐに乗客汽車は、ほとんど半分からになりました。カナダ人は飛行機に余裕がなければ、高速道路で旅行したかったのです。

カナダ人は“消費者”になりました。車や設備やいるいろな機械のために余裕がありました。一般者にとって電気は新しくないが、今、冷凍、コンビニ食事、洗濯機、乾燥機、レコード・プレーヤーなどを買う可能性になりました。普通の商品は、アメリカ製でした。世界中の一番お金持ちで力持ちの国は、アメリカでした。50年代の“メード・イン・ジャパン”という日本製の商品は見下されたポンコツでした。*

[*コメント:私は、父親の話をよく覚えます。50年で育ちながら全部日本製の品物は下品だといいました。80年代の僕は、信じられませんでした。]

一番人気の電気製はテレビでした。国境の近いに住んでいたカナダ人は、ゆらゆらのアンテナを調整するとアメリカ局の白黒のプログラムを見ようとしました。CBC(カナダ放送会社)は、1952年テレビ番組を放送し始めました。全ての都市は、だんだん自分のテレビ局を発展しました。ラジオよりアイスホッキー・ゲームを楽しむことなのでテレビは良かったのです。もし、自分の家族は近所で最初のテレビがあれば、近所の人々を家までテレビを見るために招待することは普通でした。**


[**コメント:父親の家は、近所の最初のテレビを所有しました。皆は、家にテレビ番組を見に集まりました。]

他の50年代の発明は、ロック・ミュシックでした。ティ―ンエイジャーも新しい現象になりました。以前、子供は子供の頃を楽しむチャンスは少なかったのです。家族を手伝うために学校をやめて仕事で働かなければならない子供は多かったのです。しかし、50年代と60年代のティ―ンエイジャーは、祖父母の青年期より違う生活がありました。戦後ティ―ンエイジャーは、大人の仕事や責任を負わないし、自分の趣味と活躍で忙しかったのです。自分の俗語とファッションがありました。高校へ通ったりすると大学へすすむつもりでした。アルバイトはあれば、もっと小遣いを持っていたでしょう。自由にお金を遣いました。オタワ市で生れてアメリカに移って大人気ポップ・スター=ポール・アンカのレコードとか、どこにでも音楽を聴くために新しくて小さいトランジスタ・ラジオは流行っていました。古いオンポロな車を買うと“素晴らしいホット・ロッド”に変身する夢を見る男の子は多かったのです。女の子は、後ろでボタンがあるカーディガンを着たり、クリノリンのペチコートを堅くさせるために砂糖水に浸したり、ジェームズ・ディ―ンやマーロン・ブランドのようなアメリカ映画スターに恋をしたりしました。

1950年代、カナダ人は“カナダ”について興味が強くなってきました。本国イギリスの絆は、弱くなるつつありました。カナダは、自立的に国際的な政務を行いました。ひとつには国際連合の行為や平和維持軍の活躍の理由で、カナダは世界中の大事な参加者になるつつありました。1952年に、ヴィンセント・マッシー氏は、最初のカナダで生れた総督になりました。(ともかく、1763年以来、最初でした...。実は、最後のニュー・フランス[フランスの国王植民地]の総督=ピエル・リゴー・デ・ボデロイは、カナダで生れました。)

写真の下
マリリン・ベル(16歳)は、水面の油膜やヤツメウナギや疲労とファイトをしなければなりませんでした。1954年9月9日にオンタリオ湖を渡って泳いだ人の最初になりました。21時間がかかるとずっとラジオと新聞の記者が事件を報告しました。