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ビグダン地方の冒険 (2)
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ビグダン地方の冒険 (2)
4ヶ月間ほど前からここに住んでいた。ビグダン地方に住む、そのいささなことは僕にとって人生の大切な達成だった。僕はパリの郊外の生まれ育ちの子だった。ただ父はブルターニュ出身だったのでバカンスの時ブルターニュの海の近くの村にいつも来、こちの生活のほうがずっと正しいと思い、大人になったらブルターニュで暮らすと覚悟していたのだ。
振り返ると、実際はブルターニュの生活がそんなに好きではなかったかもしれない。特に祖父母の住んでいる村の魅力をあまり感じていなかった。誰も知らなかったし、することもなかったし、うわさばっかりだったし。さらに朝から白ワインのコップの前で周りの酔っぱらいたちが屯するバーが嫌いだった。僕にとってこちの生活の虚しさのシンボルだった。その村面白いことはお祭り位しかなかったのだ。その時だけに趣味悪く青いブルズや汚い労働着を一時的に置き去りにし、伝統的な服を着、ビニュとボンバールドの音楽に伴って教会から村の広場まで列になってパレードをしていた。当時は観光客があまりいなく、お祭りは地元の人が地元の人のために行われるものだった。
祖父母の村であまり好きではなかったもう一つのものは祖父母自身だった。彼らは貧しい農民であり、貧困から解放するために体と魂の力を出し切った人間だった。こうして心は わりと乾いてきた。完全に思いやりがなくなっていたわけではなかったがその思いやりの表現は貧しさを戦う義務に配下されていた。父に対しても、孫達に対して私達の行動の評価はそのただ一つの基準に依頼されていた。こういう境地で父はブルトン語話せたら勉強が出来ないかと恐れ、父が絶対にブルトン語が出来ないように頑張った。したがって父はブルトン語を大体理解しても、いくつかの罵りの言葉以外は何も言えなかった。ともかく彼は祖先の言葉に祖先の靴であったサボと同じ価値位を与えていた。
僕は逆にブルトン語は祖父母のただ一つの魅力だと感じていた。彼らは他人に話しの内容が分かって欲しくない時しかブルトン語を話していなかったのだ。その時、僕はいつも驚いていた。なぜブルトン語は定型的なフランスの年よりの田舎者であった祖父母を不思議で、エグゾティックな外人に変身させていたのか。一応どういうものだったかと知りたかったが正直にいうと、その謎を祖父母と一緒に研究する気はなかったし、あるとしても絶対に不愉快な口調で断られるのでそれ以上謎を勉強しなかった。
(続く)
4ヶ月間ほど前からここに住んでいた。ビグダン地方に住む、そのいささなことは僕にとって人生の大切な達成だった。僕はパリの郊外の生まれ育ちの子だった。ただ父はブルターニュ出身だったのでバカンスの時ブルターニュの海の近くの村にいつも来、こちの生活のほうがずっと正しいと思い、大人になったらブルターニュで暮らすと覚悟していたのだ。
振り返ると、実際はブルターニュの生活がそんなに好きではなかったかもしれない。特に祖父母の住んでいる村の魅力をあまり感じていなかった。誰も知らなかったし、することもなかったし、うわさばっかりだったし。さらに朝から白ワインのコップの前で周りの酔っぱらいたちが屯するバーが嫌いだった。僕にとってこちの生活の虚しさのシンボルだった。その村面白いことはお祭り位しかなかったのだ。その時だけに趣味悪く青いブルズや汚い労働着を一時的に置き去りにし、伝統的な服を着、ビニュとボンバールドの音楽に伴って教会から村の広場まで列になってパレードをしていた。当時は観光客があまりいなく、お祭りは地元の人が地元の人のために行われるものだった。
祖父母の村であまり好きではなかったもう一つのものは祖父母自身だった。彼らは貧しい農民であり、貧困から解放するために体と魂の力を出し切った人間だった。こうして心は わりと乾いてきた。完全に思いやりがなくなっていたわけではなかったがその思いやりの表現は貧しさを戦う義務に配下されていた。父に対しても、孫達に対して私達の行動の評価はそのただ一つの基準に依頼されていた。こういう境地で父はブルトン語話せたら勉強が出来ないかと恐れ、父が絶対にブルトン語が出来ないように頑張った。したがって父はブルトン語を大体理解しても、いくつかの罵りの言葉以外は何も言えなかった。ともかく彼は祖先の言葉に祖先の靴であったサボと同じ価値位を与えていた。
僕は逆にブルトン語は祖父母のただ一つの魅力だと感じていた。彼らは他人に話しの内容が分かって欲しくない時しかブルトン語を話していなかったのだ。その時、僕はいつも驚いていた。なぜブルトン語は定型的なフランスの年よりの田舎者であった祖父母を不思議で、エグゾティックな外人に変身させていたのか。一応どういうものだったかと知りたかったが正直にいうと、その謎を祖父母と一緒に研究する気はなかったし、あるとしても絶対に不愉快な口調で断られるのでそれ以上謎を勉強しなかった。
(続く)
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4ヶ月間ほど前からここに住んでいる。
ビグダン地方に住む、そのささいなことは僕にとって人生の大切な達成だった。
僕はパリの郊外で生まれ育った。
ただ父はブルターニュ出身だったのでバカンスの時はいつもブルターニュの海の近くの村に来、こちら(ou こっち)の生活のほうがずっと正しいと思い、大人になったらブルターニュで暮らすと決めていたのだ。
「覚悟する」は危険なことや難しいことに対して使います。
特に祖父母の住んでいる村には魅力をあまり感じていなかった。
さらに朝から白ワインのコップを囲んで酔っぱらいたちがたむろするバーが嫌いだった。
「たむろする」はひらがなのほうがいいでしょう。
それは、僕にとってここの生活の虚しさのシンボルだった。
その村には面白いことといえばお祭りくらいしかなかったのだ。
「くらい」もひらがな。
その時だけは趣味の悪い(ou 悪趣味な)青い上っ張りや汚い仕事着を一時的に置き去りにし、伝統的な服を着、ビニュとボンバールドの音楽に乗って教会から村の広場まで列になってパレードをしていた。
当時は観光客があまりいなく、お祭りは地元の人が地元の人のために行うものだった。
彼らは貧しい農民であり、貧困から解放されるために体と魂の力を出し切った(ou 精も根も尽き果てた)人間だった。
そうして心は わりと乾ききってしまった。
完全に思いやりがなくなっていたわけではなかったが、その思いやりの表現は貧しさと戦う義務感に支配されていた。
父に対しても、私達孫に対しても、行動の評価はそのただ一つの基準に依拠していた。
こういう境遇で父は、ブルトン語が話せたら勉強が出来なくなるのではないかと恐れ、父が絶対にブルトン語を覚えないように頑張った。
したがって父はブルトン語を聞いて理解することは大体できても、いくつかの罵りの言葉以外は何も話すことはできなかった。
ともかく彼は祖先の言葉に祖先の靴であったサボと同じくらいの価値しか与えていなかった。
彼らは他人に話しの内容を知られたくない時だけブルトン語を話していた。
なぜブルトン語は典型的なフランスの年よりの田舎者であった祖父母を不思議でエキゾティックな外人に変身させていたのか。
そのわけを知りたかったが、正直にいうと、その謎を祖父母と一緒に研究する気はなかったし、あったとしても絶対に不愉快な口調で断られる(のは分かりきっていた)のでそれ以上謎を追究しなかった。
4ヶ月間ほど前からここに住んでいる。
ビグダン地方に住む、その些細なことが僕にとって人生において達成すべき大切な目的の一つだった。
僕はパリの郊外で生まれ育った子どもだった。
ただ父はブルターニュ出身だったので、僕たちはバカンスの折、ブルターニュの海の近くの村をいつも訪れた。僕にはこちらの生活のほうがずっと人間らしく思われ、大人になったらブルターニュで暮らそうと決めていたのだ。
振り返ってみると、本当のところはブルターニュの生活がそんなに好きではなかったかもしれない。
特に祖父母の住んでいる村には魅力をあまり感じていなかった。
誰も知らなかったし、することもなかったし、村人がやっていることといえば、誰かのうわさをすることだけだったし。
さらに朝から白ワインのコップの前で近在の酔っぱらいたちがたむろする酒場が嫌いだった。
僕にとって、酒場はこちらの生活の虚しさのシンボルだった。
その村で面白いことといえばお祭り位しかなかったのだ。
その時だけに趣味が悪い青い作業着や汚い労働着を一時的にぬぎ去って、伝統的な服を着、この地方の伝統的な楽器であるビニュとボンバールドの音楽を伴いながら、教会から村の広場まで行列をなして行進した。
blouse : 作業着、労働着 : フランス語では ?
当時は観光客がまだあまり多くなくて、お祭りは地元の人たちによって地元の人たちのために行われるものだった。
祖父母の村で、あまり好きではなかったもう一つのものは、祖父母自身だった。
彼らは貧しい農民であり、貧困から抜け出すために体と魂の力を消耗し切った人間だった。
そういうわけで心には潤いというものがなかった。
完全に思いやりをなくしていたわけではなかったが、思いやりを表明することは貧しさとの戦いの中では、二次的なものだった。
父に対しても、孫達に対しても、祖父母が私達の行動を評価する視点はそれだけだった。
こういう境遇にあって、父がブルトン語を話せたら、それは勉強に障るのではないかと祖父母は恐れ、父がブルトン語を話したりする機会などないように配慮した。
したがって父はブルトン語を大体は理解できても、いくつかの罵りの言葉以外は何も喋れなかった。
ともかく、父は祖先の言葉に祖先の靴であったサボと同じくらいの価値しか与えていなかった。
ただ、彼らは他人に話しの内容が分かって欲しくない時にしかブルトン語を話さなかったのだ。
そんな時、僕はいつも不思議に感じた。
なぜブルトン語は ステロタイプの ? 取り立ててかわったところのない ? フランスの年よりの田舎者であった祖父母を不可思議で、エグゾティックな外国人に変身させていたのか。
"定型的な" でもわかりますが、あまりしっくりこないような。
その理由を探ってはみたかったけれど、正直にいうと、それを祖父母と一緒に研究する気はなかったし、そのつもりになったとしても、絶対に不愉快な口調で断られるに決っているので、それ以上の追求は断念した、というのが当時僕の心境だった。
http://goo.gl/3ZWCVK
4ヶ月間くらい前からここに住んでいた。
ビグダン地方に住む、その些細なことが僕にとって人生うちで大切な達成したいと思っていたことだった。
僕はパリの郊外で生まれ育った。
ただ父はブルターニュ出身だったのでバカンスの時はブルターニュの海の近くの村にいつも行っていて、こちらの生活のほうがずっといいと思い、大人になったらブルターニュで暮らしたいと思っていたのだった。
振り返ってみると、本当はブルターニュの生活がそんなに好きではなかったのかもしれない。
知っている人もいなかったし、することもなかったし、うわさ話しばっかりだったし。
さらに朝から白ワインのコップを持った近所の酔っぱらいたちがたむろするバーが嫌いだった。
それは僕にとってこちらの生活が虚しいということのシンボルだった。
彼らは貧しい農民であり、貧困から解放されるために体力、気力を出し切ってしまった人間だった。
なので心は どちらかというと乾いていた。
精神的にもう疲れてしまった、ということでしょうか。
完全に思いやりがなくなっていたわけではなかったが、その思いやりの表現法が貧しさと戦わなければいけないために義務に支配されていた。
こういう境遇であったため、父はブルトン語を話したら勉強が出来なくなるのではないかと恐れ、絶対にブルトン語を話さないように頑張った。
僕は逆にブルトン語は祖父母のたった一つの魅力だと感じていた。
どうしてブルトン語は典型的なフランスの年寄りで田舎者の祖父母を不思議で、エグゾティックな外人に変身させていたのか。
ビグダン地方に住むという、その些細ないささなことは僕にとって人生の大切な達成だった。
ただ父はブルターニュ出身だったのでバカンスの時ブルターニュの海の近くの村にいつも来、こちの生活のほうがずっといい正しいと思い、大人になったらブルターニュで暮らすと決めていた覚悟していたのだ。
僕にとってそれはこちこちらの生活の虚しさのシンボルだった。
その村の面白いことはお祭り位しかなかったのだ。
その時だけに趣味悪く青いブルズや汚い労働着をいったん(一時的に)置き去りにし、伝統的な服を着、ビニュとボンバールドの音楽に伴って教会から村の広場まで列になってパレードをしていた。
当時は観光客があまりいなく、お祭りは地元の人が地元の人のために行うわれるものだった。
そういうわけで(こうして)彼らの(あのひとたちの)心は わりと乾いていたきた。
完全に思いやりがなくなっていたわけではなかったがその思いやりの表現は貧しさとを戦う義務の下に隠れていた。に配下されていた。
父に対しても、孫達に対しても、私達の行動の評価はそのただ一つの基準によるものだった。依頼されていた。
こういう境地で父はブルトン語が話せたら勉強が出来なくなるのではないかと恐れ、父はが絶対にブルトン語が出来ないように頑張った。
ともかく彼は祖先の言葉に祖先の靴であったサボと同じの価値位しか与えていなかったを与えていた。
なぜブルトン語は定型的なフランスの年寄り(より)の田舎者であった祖父母を不思議で、エキゾチックエグゾティックな外人に変身させていたのか。
一応(ブルトン語が)どういうものなのか(だったかと)知りたかったが、正直にいうと、その謎を祖父母と一緒に研究する気はなかったし、あるとしても絶対に不愉快な口調で断られるのでそれ以上その謎を勉強しなかった(その謎は追求しなかった)。
とてもよく書けています。
直さなくても十分通じますが、最小限の範囲で直してみました。
ブルトン人の性格、暮らしがよく伝わってきます。
ところで、昨日答えたつもりでしたが今朝「答える」ボタンを押すのを忘れていたことが分かりました。
失礼しました。
ビグダン地方に住む、そのいささ / ささやかなことは僕にとって人生の大切な達成目標だった。
「いささ」は初めて聞いた言葉です。
「人生の大切な達成」は変です。
ただ父はブルターニュ出身だったのでバカンスの時ブルターニュの海の近くの村にいつも来ていて、こちらの生活のほうがずっと正しいと思い、大人になったらブルターニュで暮らすと覚悟していたのだ。
振り返ると、実際はブルターニュの生活がそんなに好きではなかったのかもしれない。
原文も正しいですが、この方が疑問が強調されます。
誰も知らなかったし、することもなかったし、うわさばっかりだったし。
「ばっかり」は口語です
さらに朝から白ワインのコップの前で近所の酔っぱらいたちが屯するバーが嫌いだった。
「屯する」はたむろするの方が親切です。読めませんでした(>_<)
その時だけに趣味悪く青いブルズや汚い労働着を一時的に横に置き、伝統的な服を着、ビニュとボンバールドの音楽にのって教会から村の広場まで列になってパレードをしていた。
「置き去りにし」は間違いではありませんが、少しおおげさに感じます。
ex. 子供を置き去りにする、悲しさを置き去りにして進む、孤島に置き去りにされる
父に対しても、孫達に対しても、行動の評価はそのただ一つの基準に依っていた。
「そのただ一つの基準」が何を指しているのかわかりません。
僕は逆にブルトン語は祖父母のただ一つの/ 唯一の魅力だと感じていた。
いったいどういうものなのか知りたかったが、正直にいうと、その謎を祖父母と一緒に研究する気にはなれなかった。絶対に不愉快な口調で断られるのはわかっていたからだ。それでそれ以上謎を追求しなかった。
長い文章は歯切れが悪くなります。
この先が楽しみです。
>「そのただ一つの基準」が何を指しているのかわかりません。
その基準は「貧困を戦う義務を果たしたこと」です。
彼らは「貧困から脱出すること、お金を得ること」を基準にして人を判断したと理解していいですか?
ビグダン地方に住む、そんな些細なことが、僕にとって人生の大きな成果だった。
英語の an accomplishment は、日本語では上手く名詞で言い表すことができませんが、敢えて選ぶなら「成果」が一番しっくりくると思います。
「達成」は the state of having accomplished something と言った感じです。
その村で面白いことといえば、お祭りくらいしかなかったのだ。
「〜くらいしか」の「くらい」、「〜するとき」の「とき」、「〜したことがある」の「こと」「ある」など、文法的な機能を担う単語は、たとえ漢字がある場合でもひらがなで書くのがよい、とされています。
(参考:内閣訓令「公用文における漢字使用等について」http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/pdf/kunreibesshi_h221130.pdf)
当時は観光客があまりいなく、お祭りは地元の人が地元の人のために行うものだった。
祖父母の村であまり好きになれなかったもう一つのものは祖父母自身だった。
une autre possibilité
(ブルトン語とは)一体どういうものなのかと知りたかったが正直にいうと、その謎を祖父母と一緒に研究する気はなかったし、あったとしても(祖父母に)絶対に不愉快な口調で断られるに違いなかったのでそれ以上謎を研究しようとは思わなかった。
・一応は、「念のため」(juste au cas)のような意味です。
・「どういうものなのか」ここでも相対時制を使います。
・「勉強→研究」:
日本語の「勉強」は学校で習うようなことを(受け身的に)学ぶことです。(関西では「無理をして安い値段でサービスや品物を提供する」という意味でも使います)
日本語はフランス語や英語に比べ、同じ単語の繰り返しに寛容なので、直前で「研究」を使っていても、もう一度「研究」を使うことは問題ありません。
La suite !