聞き取りの練習(二)ビデオ付き 「プロジェクトXの内容です」

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Oct 29, 2011 23:36

☆ 前の部分はこちら → http://lang-8.com/271081/journals/1127560 

☆ でも前の部分を見なくても大丈夫と思います。(*´∀`*)






☆ もし見られなければ、こちらをご利用ください → ht(括弧を削除してください)tp://w(括弧を削除してください)ww.you(括弧を削除してください)tube.com/watch?v=Gn3o5gO8JZY


本文:

 戦後の傷とか言えない、昭和24年、日本は今だ食糧難にあった。多くの日本人が栄養不良に伴う病気になり、食生活の改善が政治の急務とされた時代だった。東京文京区にある東大医学部附属病院分院、昭和24年、ここに戦地から復員してきた若い外科医がいた。医師の名は宇治達郎、30歳。宇治は急増していた手の施しようのない病気をまいに立ち竦んでいた。胃癌だった。当時、癌を早期に発見する術は何もなかった。要切り被害でもほとんどが手遅れの癌で、手術もできず、ただ縫い合わせるだけだった。宇治は物静かな男だった。宇治の心に途方もない夢が宿っていたことを同僚の誰も知らなかった。
 昭和24年8月31日、関東地方はキティー台風の直撃を受けていた。この日の夜、中央本線の高雄駅の近くで、脱線を恐れた列車が停車していた。長野県の諏訪発のこの列車の中に、医師宇治達郎の姿があった。窓を閉め切った車内は蒸し暑く、乗客は疲れきっていた。その中で、宇治だけが日頃の無口が嘘のように語り続けていた。相手は出張先の諏訪でつかまえたカメラメーカの技術者、杉浦睦夫だった。宇治は胃の中の写真を取る小型カメラを一緒に作ってほしいと口説いていたのである。芳しい返事をしない杉浦に宇治は自分の戦争体験を語り始めた。医学部を出た23歳の宇治は中国戦線に召集され、敗走を続ける日本軍の軍医になった。薬や底をつき、多くの戦士を見捨てた。宇治は胃癌を探し出し、その治療をすることが生き残った自分の使命だと語った。そして、人の命を救うカメラを何としても作りたいと告げたのである。杉浦も一平荘すとして中国大陸の戦場を転戦し、多くの仲間の死に遭遇した。宇治の言葉が杉浦の心に深く突き刺さった。杉浦は、宇治と語り合った夜のことをノートに記している。8月31日はキティー台風が吹き荒れていた。胃カメラが誕生の運命はその時に決まった。
 東京渋谷区並木橋、ここに杉浦が勤めていたオリンパス光学の本社があった。軍事工場から顕微鏡やカメラの中堅メーカとして再出発を切ったばかりだった。杉浦には新型顕微鏡の開発が任されていた。しかし、杉浦は胃カメラを開発したいという気持ちを抑えられなくなっていた。杉浦は一本気な男だった。胃カメラができれば、会社の役にも立つと上司に申し入れた。しかし、胃カメラなどは絵空事であると言われ、その許可は出なかった。
 胃の中を見る試みは1868年、ドイツ医学会の権威クスマルまで遡る。クスマルは大道芸人が刀を飲み込む姿を見て、鏡を仕込んだ金属管を使って、直接胃の中を覗こうと考えついた。
昭和初期に輸入されたクスマルの金属管が残されていた。



続きます(^。^;)


ご訂正ありがとうございます!m(__)m お疲れ様でした!(_´Д`)ノ~~オツカレー


ツッコミ:本当に長すぎですよ。(´;ω;`) 実はほとんど聞き取りましたが、1万字ぐらいの長さかな...゚(゚´Д`゚)゚