鼓浪屿导游词 日语 大家帮我改改

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Jun 5, 2011 20:27
鼓浪屿导游词 中文及日语
各位团友:

大家好!今天我们游览“海上花园”鼓浪屿。
现在我们的车行驶在中山路上。中山路是厦门目前最繁华的商业街,它建于20世纪二三十年代,又是一条老街,街旁建筑为骑楼式(将楼的下层部分做成柱廊式人行道,使楼层的一部分跨建在人行道上,用以避雨、遮阳、通行,故名骑楼),这是厦门一大特色。中国南方城市和东南亚国家的城市多有这种驶楼。这主要是考虑到厦门地处亚热带,有时阳光照射强烈,风雨交加,行人可以在骑楼下防晒避雨,自由行走,随意购物。中山路是厦门的主要商业街,也是厦门的文明街,品种繁多齐全,国货、洋货均有。
各位团友,渡船时间约为六分钟,下面我向大家简单介绍鼓浪屿。看,对面的小岛就是鼓浪屿,这条江叫鹭江,也叫厦鼓海峡,宽600米。鼓浪屿面积1.78平方公里,人口1.9万。宋元时期称“圆沙州”,明肛始称鼓浪屿。因岛的西南海边有一块大岩石,长年累月被海浪冲出一个大洞,每逢潮涨,海浪扑打岩洞,发出如擂鼓的声音,所以人们叫它为“鼓浪石”,小岛也就叫鼓浪屿了。现为国家重点风景名胜区,是福建旅游景区“十佳”之首。
各位团友,码头到了,这个码头是1976年新建的,以前的码头很小,是1938年建的。这里原来是西方列强贩卖中国劳工出洋乘船的地方,大家看过《海囚》这部电影吧,那“海囚”就是从个码头乘船出发的。为解决乘船拥挤的问题,建了这个“钢琴码头”。因为鼓浪屿是“音乐之岛”,要使游人一跳上鼓浪屿就接触到音乐的气氛围,大家看这是不是有点像张开的三角钢琴!
各位团友,豉浪屿除了少量观光电瓶车外,没有其他车辆,在岛上步行别有情趣。现在我们一边走一边观赏鼓浪屿欧陆建筑的风采吧!
这是英国领事管,建于1844年和1870年,已经150多年历史了。1840年,英国发动鸦片战争,它的远征军开到厦门海面,与厦门守军发生激战,结果英军战败退去。1841年8月,英国30艘军舰3500余人再次进犯厦门,经激战,厦门和鼓浪屿陷落,厦门被占领10天,英军撤退时留下军舰3艘、军队500人强占鼓浪屿达5年之久。中英《南京条约》允许英国人在鼓浪屿“暂居”。1843年,英国首先在鼓浪屿设立领事馆,首任领事就是攻打厦门的海军舰长。1844年第二任领事建了这幢领事楼。可领事虽住在这里,却强占厦门的最高行政机关“兴泉水海防备道”道署办公,前后达20年。这是1870年建的新办公楼,落地门窗,一副英国模样,内部装饰相当豪华,但有6间囚室。楼前的一座狮狗墓,那是领事爱犬死后特意建造的,1957年被砸毁,墓旁立有一根钢管旗杆,已废倒。

日光岩
各位团友:
这是日光岩寺新修的山门,让我们先看前方巨石上的三幅石刻,这好像一个人写的,其实是三人所书。“鼓浪洞天”是明万历年间(1573年)泉州同知丁一中写,已经400多年了,是日光岩上最早的题刻;“鹭江第一”是清代道进士林缄所写,也有100多年了;“天风海涛”是民国4年(1915年)福建巡按使许世英写的。在如此高大的石头上凌空崖刻,气魄很大。
各位团友,日光岩寺原名莲花庵,是厦门四大名庵之一,实际是一石洞,以石为顶,故又叫“一片瓦”,始建于明代正德年间,万历十四年(1586年)重建。因为每天凌晨,朝阳从厦门五老峰后升起,莲花庵最先沐浴在阳光里,因此得名“日光寺”。又传说当年顾成功来到晃岩(日光岩的别称),看到这里景色远胜过日本的日光山,便把“晃”字拆开,称为日光岩。日光寺屡毁屡建,清同治年间,建圆明展,祀弥勒。1917年建大雄宝殿。解放后,圆明殿改成念佛堂。改革开放后,落实宗教政策,日光寺得到政府的扶持,接受海内外十方善信的捐赠,大兴土木,翻修了大雄宝殿,新建了山门、钟鼓楼、旅游平台、法堂、僧舍、小卖部和膳堂,寺庙焕然一新。日光寺是一座精巧玲珑袖珍式的寺庙,大雄殿、弥陀殿对合而设,是全国唯一的。由于环境优越,历代高僧不断,著名的弘一法师1936年曾在这里闭方便关8个月。
日光山又称龙头山,与厦门的虎头山隔海相望,一龙一虎把守厦门港,叫“龙虎守江”。这里原有一亭名“旭亭”,早已毁圯。台湾文人石国球写了一篇《旭亭记》,描写日光岩“山罗海绕,极目东南第一津,水光接天,洪波浴日,皆为梵刹呈奇”,磴道巨石夹峙,森严壁立,有“九夏生寒”之意,凉意自然来自“鹭江龙窟”了。

翻译
 各位の青年団の友:
  
  みなさん、こんにちは!今日私たちが鼓浪屿に访れます。すなわち「海上の花園」です。
  今私达の车で走っているのは中山道という。中山路はアモイいちばんにぎやかな商業街であるが、それが二三十年代に建てられていましたが、また20世纪には、街のそばの下町に骑楼建築は下(柱廊から作られた部分の横断歩道を渡って、フロア式の一部が建っている。证文が歩道を覆うことや、雨宿りをして、両者は通用骑楼名)は、アモイ特色です。中国南部の都市や东南アジアが多い国の都市にかられて階にあった。それは主に亜熱帯距离を考虑し、アモイ、日差しが強い、时には多分すぐ后骑楼の下では、歩行者のほかにも、紫外线を自由に歩いたり、买い物をします。中山路はアモイの主要商業街、文明街、国産産品も洋品もある。
  各位の団だが、船の時間が約6分間、次にみんなに简単に鼓浪屿をご绍介しておる。ほら、向こうの小島は鼓浪屿であるなら、それは鹭江とも呼ばれてと厦ドラム海峡、幅は600メートルです。そして美しい鼓浪屿の面積1.78平方キロメートル、人口1万人にのぼる。「宋元期によると、明朝から鼓浪屿とよばれる。海は岛の南西に大岩積年波が、それぞれの一つの大きな穴を飛び出した波が、潮の扑打、しばらくの間擂鼓の声がして、だから人々はそれを「鼓浪石」と呼ばれ、岛も鼓浪屿である。現在は国家級の风景名所、福建省の観光スポット「ベストテンのトップだった。
  みなさま、この埠頭に着いて、桟橋は、1976年によれば、昔の新筑埠頭は小さく、は1938年の建物だった。欧米列强もとはここで贩売される中国の労働者を外国に乗船したところで、みんなする『海囚』を読んだことがあるんでしょ、「海の埠头する」とは、船を出発したからだ。船の问题を解决するために解决に建てられた。この「ピアノ埠頭」を発表した。そして美しい鼓浪屿からは「音楽の岛」させるには、遊覧客ははじかれたように接し音楽の鼓浪屿であるガーネット、みんなをちょっと開いたようなグランドピアノ!
 みなさま、いに少量の観光电気自転车を除いて、他の車がない。島を歩行しることは特別な味がある。今私达は见に行きました。鼓浪屿で歩きながら欧陆建物の风采を体感しましょう!
  これは、1844年と1870年英国の领事が建てられていて、150年以上の歴史になりました。1840年、英国はアヘン戦争を発动し、海面、国境までイギリス军がアモイ市の守军と激突すると発生するのに関わらず、结局は敗戦で帰った。1841年8月、英国30隻の军舰3500人余りが再び进犯アモイを通じて、激戦で、アモイ市と鼓浪屿であるとされ、陥落した10日、英国軍撤退れの军舰3只、軍の强占500人が5年ぶりと鼓浪屿である。中英『南京条約』により、英国人の暫居鼓浪屿ということが许されていた。1843年、イギリスはまずある区に设立され、领事馆首任领事鼓浪屿であるがきこえてきた绢见厦門海。1844年に建てられたこの思い詰める领事领事の階にあった。领事が住んでいたとは强占アモイの最高行政機関「兴泉水海无防备道」は、前後と署はオフィスで20年になる。これは1870年に建てられた新オフィスビルは、英国の戸締まりは、内装豪华だが、6室の囚室。犬の墓のライオンの一つの直前、あれは领事愛犬が死んでも建てられた、1957年にわざわざお墓の傍に立砸毁され、旗杆パイプの一本が、廃倒した。
  
  日光岩
  各位の青年団のみなさま:
  これは日光岩寺修山門の前に、巨石に3枚の石刻これ一人で書いたものようですが、実际には三人が书いたものだ。「鼓浪洞天」は、明の万暦年間(1573年)同知丁一中で書いて、すでに400余年になってきたのは日光岩最初の题刻;「鹭江第1」は清朝道进士林缄が書いたのは100年になりました。「天风海涛」は民国4年(1915年) 福建巡按使に许世英に書かれている。そんなに高い石の上で凌空崖刻んで、気迫が大きい。
  みなさま、日光岩寺は、アモイの四名庵の一つでけんせい花庵、実际には、石洞である。、またも「一片かわら」正德年間に建设された。万历十四年(1586年)建て重ねてられていた。毎日午前五老峰後から日がのぼって、福建省アモイ市から朝陽が花庵の最初の光を浴びて日光の中で、「日光寺」を称じた。また伝说をものともせず顾成功が晃岩(日光岩の俗称)にきたは、ここは日本の日光山の景色に胜ったまで、「晃」の字になりかね日光岩と呼ばれる。日光寺は何度溃しても建てても、清朝同治年間に、園明殿が建っている。(いわなければなりません。1917年に大雄宝殿が建てられた。解放後、園明殿を念仏堂に改めた。改革開放政策が実行した後、宗教政策が実施して、日光の寺をサポートするすべてのように、行政の手紙の寄付)善家で、大大雄宝殿施工し、新しくなった自ら钟鼓楼、観光、山門のプラットフォームや法堂、食事や売店、僧舍寺堂に一変する。日光の寺は精巧玲珑コンパクト式の祠廟に、のび太殿、弥陀殿对合のためで、全国の唯一のだった。環境が优遇されている、歴代高僧が绝えず、有名な叶法師1936年かつてここで関ジャニ8カ月を便利ではありません。南に台湾海峡台湾
  日光山は龙头山とも呼ばれ、海を隔ててアモイの虎头山に臨んで、、龙と虎が厦门港を守って、『龙虎守江』と発表した。ここに「旭亭」というのはあるが、もう溃してしまた。台湾の文人石国球が書いた『旭亭記』の中で、日光岩を描いて「山罗海极目南東へまわって、天に接す、第一、洪波浴日、梵刹たちのためにある奇岩」って、巨石に峙を挟まれ、つぎからつぎへと岩壁立というのは、「九夏生寒」という意味で、凉しさが自然に「鹭江竜窟」になった。

原稿

毓园
各位团友:
现在我们来到毓园。毓轩是林巧稚大夫的纪念园。林巧稚,1901年出生在鼓浪屿,1929年毕业于北京协和医科大学,由于成绩优秀,被留在协和工作,1983年4月22日在北京逝世,终年83岁。
各位团友,这里展示了林大夫平凡而又伟大的一生。这些实物都是她生前用过的,这些照片是她学习、工作、生活和参加社会活动的记录,这些是她的著作、论文和各种证书。从这些实物、照片、资料中我们可以看到林大夫对工作极端认真负责的态度,对同志特别是对婴儿、母亲的赤诚热爱,这都是值得我们后人学习。
各位团友,游览鼓浪屿到此全部结束了。各位如还有兴趣,可以挤出时间,到环岛路走走,欣赏一下大海的风韵和欧陆建筑的风采,也可深入小巷,听的别墅里流出的钢琴奏鸣声,增加厦门之旅的文化内涵。谢谢各位的合作。

翻译
毓园
  みなさま:
  今私达にやってきたのは毓园。これは医者林巧稚の記念園。1901年鼓浪屿に生まれ、1929年北京コンコルド医学大学を卒業後、成绩が優れているのため北京コンコルド医院に働かせてもらって、83年4月22日、北京で亡くなり、83歳。
  みなさま、ここは平凡で医者の生涯を展示しただった。これらの実物は林さんの以前使ったもので、この写真は彼女の学び、仕事や生活や社会活动に参加した記録した。こちらは、彼女の論文や各种の証明書を得た。それらの実物や写真、资料から見ると、林さんは仕事に対しては责任感があっての态度で、极端に仲間には特に、赤ちゃんと母亲に心から爱して、これは私たちが勉强になるところ。
  観光団の皆さん、鼓浪屿の観光はここに全て终わりである。興味があれば、環島路を歩いて、时间に直行した道を鑑赏して、ちょっと島海のおもむくままに、海の風景と欧陆建物の風貌を深く体感することができる、別荘から流出した、アモイピアノの音を加えて、アモイのその旅は文化の内容もふえる。皆様の協力をありがとうごさいました。