1950〜1980年代の映画

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Jul 20, 2018 08:31
1950〜1980年代の映画

 授業での見た映画を通して発見した発展のつながりについての随筆だ。まず、「七人の侍」(1954)で黒澤明は、食料不足時代の侍と条件を現実的に描写しようとした。言ってみれば、自然主義的に映画のキャラクターの弱点と美点が含まれている性格を描いている。こういうふうに、同時の侍と戦争を謳歌している映画を批判していた上、美徳的に戦って勝ったわりに、侍たちは結局負けたことを通して戦争の無意味さを表していた。
 上述に反して、小津安二郎が作った「秋刀魚の味」(1962)の世界は、現実的に描かれた代わりに、ロマン主義的に現実の思想として描写された。この映画には、戦争ではなく、家族の戦場の悲しさが、美しく見える外見の下に潜んでいる。このように、戦前の家族が崩れていく変化を表している。
 黒澤と小津は、主に黄金時代の監督と考えられている。1960年ごろにテレビの台頭のせいで、黒澤と小津の、元々に独特な技術は、お金を作るように、 商品化されてしまった。その前の芸術運動がテレビとか、マスコミュニケーションなどに酷使されたのを思い至ったいわゆる変革時代の監督たちは、その変化を戦って打ち砕こうとした。自然主義やロマン主義・コメディーなど、様々な虚構的なスタイルの真似と、ドキュメンタリーの現時的な描写を通して、 視聴者の期待を何回も裏切っている。このように、意味が分からないほど非常に複雑な世界が恣意的に見えてくる。ここからこそ、「青春残酷物語」(1960)という映画は、現実の描写をし終わり、映像そのもの自体として現実に踏み込もうとした。
 ところが、変革時代がキャピタリズムとの戦争を負けてしまった灰からポストモダニズムのピンからキリまで上品と下品の芸術を重ねている運動が現れてきた。「幸せな黄色いハンカチ」(1977)という映画には、下駄や、カウボーイみたいな服を重ねている欽也という男の人がその変化をはっきり表している。この映画の世界には、若者が現実を離れたが、前代の戦争からの破片を合わされる可能性からこそ、勇作と光江の恋愛を見てこそ、現代の若者が恋愛できるようになる。つまり、虚無感を陥らずに生きている希望があるのだ。
 逆に、「家族ゲーム」(1983)には、いかにそのような希望がなさそうだ。最後の晩餐と似ている場面で、イエスのようなキャラクターの吉本は、みんなの罪を許されるイエスの代わりに、うんざりして最後の晩餐での家族を打ち、イエスの役割から逃げる。このように、この映画は、 イエスがない世界がどうなるかといえば、地獄のような世界になりそうだ。家族が寝ってしまい、家族の父がいない。最後にヘリコプターの音が聞こえる。もしかしたら、そのヘリコプターが父を探されば、そして、父が神様を象徴することを言ってもよければ、ヘリコプターの音は、神様がいない地獄の時代を布告するかもしれない。